2012年6月8日金曜日

あれ、拓さん


「あれ、拓さん、」とばかり身を急るお雪が膝は、早や水に包まれているのである。
「いや、いけない、」と学士は決然として言放った。
滝太郎は真中に立って、件の鋭い目に左右を※して瞳を輝かした。
「ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、可けなけりゃ皆で死のう。」
雨は先刻に止んで、黒雲の絶間に月が出ていた。湯の谷の屋根に処々立てた高張の明が射して、眼のあたりは赤く、四方へ黒い布を引いて漲る水は、随処、亀甲形に畝り畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪を頸に縋らせて、滝太郎は面も触らず件の洞穴を差して渡ったが、縁を下りる時、破屋は左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪水の上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、
「拓さん堪忍して。」

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