2012年6月8日金曜日

しばらくして、 「送って来て下さいましたよ。」


 しばらくして、
「送って来て下さいましたよ。」
「そして?!」
「あの、お向の荒物屋に休んでいらっしゃいます。」
「そうか、」といったが、我ながら素気なく、その真心を謝するにも、怨をいうにも、喜ぶにも、激して容易くは語も出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、現のごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人斉しく涙を湛えて、差俯向いて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。
 框に人の跫音がしたが、慌しく奥に来て、壮な激しい声は、沈んで力強く、
「遁げろ、遁げねえか、何をしとる!」
 お雪は薄暗い燈の影に、濡れしおれた髪を振って、蒼白い顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うも疾しや!
「洪水だ、しっかりしろ。」
 お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。
「早くしねえかい、べらぼうめ。」と叱るがごとくにいって、衝と縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶起きようとして燈を消した。
「周章てるない、」といって滝太郎は衝と戻って、やにわにお雪の手を取った。
「助けてい!」と言いさまに、お雪は何を狼狽えたか、扶けられた滝太郎の手を振放して、僵れかかって拓の袖を千切れよと曳いた。

蒲田 歯科 売り言葉に買い言葉