2012年8月17日金曜日

あれ以来、ベラン氏は


 あれ以来、ベラン氏はすっかり元気がなくなり、あまり口数をきかなくなった。倶楽部へ姿をあらわすことはあるが、彼は戸棚から小説本を取出して、隅っこに小さくなって頁を拡げていることが多かった。しかしそれを読み耽っているわけでもないらしく、時には一時間も一時間半も、同じ頁を開いたままのこともあった。
 ベラン氏にかわり、ベラン夫人ミミがのさばり出した。彼女は一家の暇のある姉娘のように、誰彼の服装について遠慮のない口をきくかと思えば、針と糸とを持ち出して、綻びを繕ったり、そうかと思うと、工作室から鉋や鋸を借りてきて、手製の額を壁にかけたりした。
「ベラン夫人。貴女は名誉家政婦に就任されたようなものですね」
 と、僕は、壁に釘をうつ美しい夫人の繊手を見上げながら声をかけた。額の中の絵は、ボナースの水彩画で、スコットランドあたりの放牧風景の絵であった。
「岸さんたら、お口の悪い。あたし、運動不足で困っているのよ」
「なるほど。室内体操場で、バスケットボールでもやったらどうですか」
「満員つづきで、とても番が廻ってきませんわ」


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