2012年6月4日月曜日

「何じゃい。」と打棄ったように

「何じゃい。」と打棄ったように忌々しげに呟いて、頬冠を取って苦笑をした、船頭は年紀六十ばかり、痩せて目鼻に廉はあるが、一癖も、二癖も、額、眦、口許の皺に隠れてしおらしい、胡麻塩の兀頭、見るから仏になってるのは佃町のはずれに独住居の、七兵衛という親仁である。  七兵衛――この船頭ばかりは、仕事の了にも早船をここへ繋いで戻りはせぬ。  毎夜、弁天橋へ最後の船を着けると、後へ引返してかの石碑の前を漕いで、蓬莱橋まで行ってその岸の松の木に纜っておいて上るのが例で、風雨の烈しい晩、休む時はさし措き、年月夜ごとにきっとである。  且つ仕舞船を漕ぎ戻すに当っては名代の信者、法華経第十六寿量品の偈、自我得仏来というはじめから、速成就仏身とあるまでを幾度となく繰返す。連夜の川施餓鬼は、善か悪か因縁があろうと、この辺では噂をするが、十年は一昔、二昔も前から七兵衛を知ってるものも別に仔細というほどのことを見出さない。本人も語らず、またかかる善根功徳、人が咎めるどころの沙汰ではない、もとより起居に念仏を唱える者さえある、船で題目を念ずるに仔細は無かろう。

被リンクされると、嬉しくなってしまいます_きっといいものが見つかるブログ_百度空? 虎穴に入らずんば虎子を得ず