2012年4月20日金曜日

いや、広いばかりで、一向かまひません

 ――いや、広いばかりで、一向かまひません。
 かう云ふ挨拶に慣れた先生は、折から小間使の持つて来た冷茶を、客の前に直させながら、直に話頭を相手の方へ転換した。
 ――西山君は如何です。別段御容態に変りはありませんか。
 ――はい。
 婦人は、つつましく両手を膝の上に重ねながら、ちよいと語を切つて、それから、静にかう云つた。やはり、落着いた、滑な調子で云つたのである。
 ――実は、今日も伜の事で上つたのでございますが、あれもとうとう、いけませんでございました。在生中は、いろいろ先生に御厄介になりまして……
 婦人が手にとらないのを遠慮だと解釈した先生は、この時丁度、紅茶茶碗を口へ持つて行かうとしてゐた。なまじひに、くどく、すすめるよりは、自分で啜つて見せる方がいいと思つたからである。所が、まだ茶碗が、柔な口髭にとどかない中に、婦人の語は、突然、先生の耳をおびやかした。茶を飲んだものだらうか、飲まないものだらうか。――かう云ふ思案が、青年の死とは、全く独立して、一瞬の間、先生の心を煩はした。が、何時までも、持ち上げた茶碗を、片づけずに置く訳には行かない。そこで先生は思切つて、がぶりと半碗の茶を飲むと、心もち眉をひそめながら、むせるやうな声で、「そりやあ」と云つた。
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