今の我が文壇には右の如き心持ちを懐いて筆を執っているものが果して幾人あるか。
徒らに生活に妥協して、自ら深く生に徹して行こうとする勇気を欠いてはいないか。容易なだらけ切った気持ちで有るが儘の世相の外貌を描いただけで、尚お且つ現実に徹した積りでいるなど、真に飽きれ果てた話だ。こんなものが何んで現実主義といえよう。
前述の如く、純芸術的の作品が民衆に感動を与えるのは何の為めかというに、それは其の作家が現実の苦痛を苦痛とする犠牲的精神をもっているからである。トルストイを見よ、ミレーを見よ、みな斯くの如き信仰の下に戦いを戦って来ているではないか。
然しながら現文壇の斯うした安易なだらけ切った状態はそう何時までも永続し得るものではない。何人もが世界平等の苦痛を共に嘗《な》め、共に味わなくてはならないように、各人の生活内容が変ってきた時、其処から初めて新しい感激が湧き、本当の愛が生れてくるだろう。然し私は、社会改造の事実は各人の信念にその根底を置くものだと考えている。そうして此の信念を民衆の頭に植えつけるのは真の民衆芸術家の為すべき務めであると考えている。独り永久に人間性の為めに戦わなければならないのは、芸術家の義務である。
船橋 歯科 徒花に実は生らぬ