彼はそっと後ろを見た。が、そこには仕合せと犬らしいものは見えなかった。ただあの主計官が窓の外を見ながら、にやにや笑っているばかりだった。保吉は多分犬のいるのは窓の下だろうと推察した。しかし何だか変な気がした。すると主計官はもう一度、「わんと云え。おい、わんと云え」と云った。保吉は少し体をじ曲げ、向うの窓の下を覗いて見た。まず彼の目にはいったのは何とか正宗の広告を兼ねた、まだ火のともらない軒燈だった。それから巻いてある日除けだった。それから麦酒樽の天水桶の上に乾し忘れたままの爪革だった。それから、往来の水たまりだった。それから、――あとは何だったにせよ、どこにも犬の影は見なかった。その代りに十二三の乞食が一人、二階の窓を見上げながら、寒そうに立っている姿が見えた。
「わんと云え。わんと云わんか!」
登山 レンタル 魚心あれば水心 - Yahoo!ブログ